☆日曜日 午前10時30分 聖日礼拝 週の始めの朝、私たちの造り主なる神…続きを見る
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5月という月は、先月末から続く連休と共に始まりますが、それは新年度からひと月を経て、新たな環境の中にある仕事や学びの手を休めて一呼吸し、改めて仕切り直しをしてゆく機会のようにも思えます。
緊張がほぐれて周りを見渡す余裕と共に、これまでの反動として、程よく緩んだ心が疲れを自覚するのもこの時期で「五月病」とはよく言ったものです。
聖書の中に
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
との、キリストの招きのことばが記されています。
多くの教会がこの言葉を掲げて、案内用の看板に記しているのを見かけますが、それは総じて勤勉さが国民性となっている多くの日本人の感覚に沿ったものだからといえるでしょう。
そして、キリストがこの言葉を語った時、そこにいたのはキリスト自らが弟子として招き寄せた12人が、各々派遣された奉仕を終えて再びキリストのもとに集まった時、つまりひと仕事終えて、その成果を持ち寄った時であり、キリスト自身もまたそれまでの働きを振り返って、一方で病人の癒しや、悪霊の追い出し等、人々が目を見張るようなわざを見ながら、心を動かしてキリストを受け入れるまでに至らない姿を嘆く思いがありました。
「疲れ」というのは、単なる肉体疲労とは別に、働きの割に成果を感じられない時、失望を伴うものとしてやってくることがあります。人は自分のしていることが無意味に感じられる時、たまらない空しさ、徒労感にさいなまれることでしょう。
けれどもそのような時「わたしのもとに来なさい」とキリストは私たちを招かれます。そして、キリストのもとで「休む」とは、単なる休息以上に、抱えていることを手放してみることだといえます。
それは自分の思い描いた計画と方法で抱えている仕事や課題そのものが、実はキリストによって、まるごと抱えられていることに思いが至ることだといえるでしょう。
初めて足を運ぶ場所を旅行していても、すべて自分ひとりでスケジュールを組んだ時と、そこに精通したガイドが同伴する時では、安心の度合いはずい分違ったものとなることでしょう。
同様に、自分ひとりで目前の課題や困難に向き合っていると考える時と、そこに、この世界の森羅万象と自分の人生に精通したガイドがいっしょにいると感じる時とでは、やはりその重さは違ってきます。
また聖書は人を羊にたとえ、神が羊飼いとなって導かれる人生の幸いを結論付けてこう語ります。
「主は私の羊飼い 私は乏しいことがありません~まことに私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが私を追ってくるでしょう。」
新年度からひと月、今後の不安材料を並べれば、いくらでも出てくるかもしれません。けれども「いのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追ってくる」のなら、振り返る時、すべては懐かしい思い出に変わるといえます。
今は周りを見渡しても、頼りになる人を見出せず、自分がひとりぼっちだと感じることがあるかもしれません。けれどもキリストはそういう中で「疲れ、重荷を負っている」私たちに向かって「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」言われます。
「わたし(キリスト)のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」 (聖書)
※各集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。
教会の名前となっている「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味の、聖書に記されていることばです。
それは、私たちが順境の時はもとより、困難、失望、孤独の中にあってさえ、神が共におられ、信ずる者の味方となってくださるということです。
教会で歌われる讃美歌の中に次のようなものがあります
「人生の海の嵐にもまれきしこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し」
教会は港のように人生航海の途上にある人たちが立ち寄り、神さまの愛と安らぎの中で休み、くつろぎ、養われ、整えられてゆく場です。
どうぞ、どなたも、ありのままの素の自分になってくつろげる、こころのリビングへおいで下さい。
なお、メールアドレスは以下の通りです。
igm.akita@softbank.ne.jp