☆日曜日 午前10時30分 聖日礼拝 週の始めの朝、私たちの造り主なる神…続きを見る
3月を迎え、秋田はみぞれ交じりのなごり雪となっていますが、春に向かって締めくくりや区切りの時を過ごし、新たな年度に備えている方もおられることでしょう。今月もこころのリビングにようこそ!
年末年始が個人的な一年の心の区切りだとすれば、こちらは仕事や学業といった、それまで取り組んできたことに対する節目といえるでしょうか。そこには、それまでの結果に対する総括があり、新たな目標に向けての準備の期間も並行して進んでゆくことでしょう。
それまでの歩みに区切りをつけ、新たな変化に向けた「溜め」を蓄える、というとき、それまで自分が辿った歩みを振り返り、感謝と反省のときを持つことが、前に踏み出すためには肝要なことでしょう。
「人はパンだけで生きるのではなく~」という言葉を聞いたことのある方はいらっしゃると思いますが、聖書に記されているこのことばは、さらに「人は、主の御口から出るすべてのことばで生きる」と続きます。
この言葉の背景には、エジプトで奴隷として使役されていたイスラエルの民が、指導者モーセに率いられてそこを脱し、約束の地へと荒野を旅する中で経験した困難があります。それらを通して、神さまが彼らに伝えたかったことが、この「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」ということでした。
パンは文字通り私たちのからだ、健康を維持するために必要なすべて、といえるでしょう。よく、ここから文化や芸術といった、人生を彩るあらゆる必要を訴えるためにこの言葉が引き合いに出されますが、聖書の言う、人が生きる上でカギとなるのが「神の口から出ることば」だというのです。
別の言い方で言えば、それは「約束」であり、神の真実を保証するもの、とも言えましょう。身体に必要なのは食事であっても、その宿主である人のたましいには「神のことば」に現わされた、神の真実、あるいは保障といった後ろ盾が不可欠であるということです。
それはこの言葉の背景となった荒野の旅路の中で、彼らを支えたものが肉体の必要だけでなく、先にあるものを期待し、保証する約束だったから、とも言えます。聖書の中で、その旅路のゴールが「約束の地」と呼ばれているのは意味深いことと言えます。
日本にキリスト教が伝播して間もない頃、最初の宣教師となったフランシスコ・ザビエルは、当時滞在していた寺院の住職と問答をしたことがあるそうです。それは「若い日と老齢期ではどちらが幸せか」という問いからでした。「病気もなく身体も自由の利いた若い日」と答える住職に向かってザビエルは「船乗りにとっての喜びとはその航海の最中か、それとも目的の港が見えてきた時か」とさらに尋ねたそうです。ザビエルの質問の意図を理解した住職は正直に「バテレン殿、私は何が自分にとって本当の目的地なのか、わかっていないのです」と答えたということです。
学業にせよ、仕事にせよ、何らかの目的があり、その達成が意図されて、こうした年度の区切りが用意されていますが、私たちの人生にもまた目的があり、ゴールがあります。おそらくそこに必要なのが「パンだけではなく~神の口から出ることば」だといえるのでしょう。そこには人生の終わりに至るまでの目的とゴールが示されているからです。
新たな年度に踏み出そうとするこの時「神のことば」である聖書を通して、人生の目的とゴールを見据え、新しい一歩を踏み出してみませんか。
「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です」 聖書
※教会の集会の様子は「IGM秋田教会」で検索されると視聴できます。
教会の名前となっている「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味の、聖書に記されていることばです。
それは、私たちが順境の時はもとより、困難、失望、孤独の中にあってさえ、神が共におられ、信ずる者の味方となってくださるということです。
教会で歌われる讃美歌の中に次のようなものがあります
「人生の海の嵐にもまれきしこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し」
教会は港のように人生航海の途上にある人たちが立ち寄り、神さまの愛と安らぎの中で休み、くつろぎ、養われ、整えられてゆく場です。
どうぞ、どなたも、ありのままの素の自分になってくつろげる、こころのリビングへおいで下さい。
なお、メールアドレスは以下の通りです。
igm.akita@softbank.ne.jp